モンゴメリー クリフト。 モンゴメリー・クリフト

終着駅

モンゴメリー クリフト

二卵性双生児であった。 父親が銀行の副頭取という裕福な家庭で、子供たちを貴族のように育てたいという母親の意向により、欧州などを周 遊していたが、世界大恐慌の煽りで父親の銀行が破綻し、優雅な生活は終わりを告げた。 兄と姉は進学したが、学校が嫌いなモンティはフロリダ州のアマチュア 劇団に入り、「 As Husbands Go 」 1933年) で初舞台に立った。 モンティの俳優としての資質を認めた母親の勧めでオーディションを受けて合格。 14歳の時 に、主演の舞台 「 Fly Away Home 」 1935年) でブロードウェイ・デビューを果たした。 順調にキャリアを積み重ね、演技達者な2枚目の若手俳優として注目を集めるようになった。 ハリウッドからの度重なるオファーを断り、約10年間、舞台で の活動に専念した。 (右の写真) 舞台 「 The Mother 」 1939年) にて。 アラ・ナジモヴァと ・1946年、モンティの舞台を観たにスカウトされ、漸くハリウッドに進出。 初出演作の 1948年) は公開が遅れた ため、次に出演したの 『山河遥かなり』 1948年) の方が先に公開され、同作でいきなりアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。 『赤い河』 (左)と 『山河遥かなり』 イワン・ヤンドル(左)と ・一躍ハリウッドの新星となったが、大手スタジオとの専属契約を拒み、作品を厳選して出演 した。 の 1949年)、ジョー ジ・シートン監督の 『大空輸』 1950年) に出演。 の 1950 年) への出演を辞退している。 『女相続人』 と 『大空輸』 コーネル・ボーチャーズと ・の 1951年) で、2度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。 12歳年下のとは、当時のハリウッドで、最も美しいカップルと評され、私生活においても固い友情で結ばれることとなった。 (左の写真) 『陽のあたる場所』 エリザベス・テイラーと ・エリザベス・テイラー曰く、「 モンティがもっと多くの映画に出演していたら、最大 のスターになっていたでしょう 」。 フレッド・ジンネマン監督の 1952年) への出演を辞退。 の 『私は告白する』 1953年) で、2年ぶりに銀幕に姿を現した。 (右の写真) 『私は告白する』 と 同年には、の 『終着駅』、フレッド・ジンネマン監督の 1953年) も 公開され、『地上より〜』で、3度目のオスカー候補にもなった。 尚、ジョージ・スティーヴンス監督の 1953 年) への出演は辞退している。 『終着駅』と 『地上より永遠に』 と ・1954年、『王妃デシレ』 等、ハ リウッド映画のオファーを断り、出演料が遥かに安いオフ・ブロードウェイで、チェーホフ作の 「かもめ」 に出演。 ハリウッドでは異端児と見なされるようになった。 (左の写真) 舞台 「かもめ」にて。 ジュディス・イヴリンと ・30代から慢性の大腸炎を患い、薬を服用していたという。 そんなことも影響したのか、 「かもめ」 に出演した後、舞台や映画から遠ざかってしまった。 復帰させたのはエリザベス・テイラーだった。 エドワード・ドミトリク監督の 『愛情の花咲く樹』 (1957年) での共演者にモンティを指名した。 1956年5月、約2年ものブランクを経て撮影に臨んでいたモンティは、エリザベス・テイラー宅でのパーティーからの帰路、自動車事故を起こしてしまっ た。 飲酒の上での居眠り運転だったとされている。 事故車の中から彼を救出したのは、急報を受けて駆けつけたエリザベス・テイラーだった。 咽喉に詰まっていた折れた歯を取り出し、窒息から救ったという。 モンティは顔面骨折の大怪我を負い、整形手術と2ヶ月間のリハビリを経て撮影に復帰したが、顔の一部の神経が麻痺して動かなくなっていたという。 (右の写真) 『愛情の花咲く樹』 エリザベス・テイラーと ・当時、モンティの好敵手と見なされていたのが。 2人とも著名な演技指 導者から 「メソッド演技法」 の手ほどきを受けており、同郷 ネブラスカ州オマハ生) でもあった。 エドワード・ドミトリク監督の 『若き獅子たち』 1958年) では共演もしたが、一緒のシーンはなかった。 『孤独の旅路』 1958年) と 『若き獅子たち』 リー・ヴァン・クリーフ(左)、 (中央)と ・の 『去年の夏、突然に』 1959年)、の 『荒れ狂う河』 1960年)に 出演。 事故後は痛み止めの薬も服用するようになり、撮影に支障をきたすこともあったという。 ドラッグとアルコールにより心身ともに蝕まれていったとされて いる。 『去年の夏、突然に』 (左)、 エリザベス・テイラー(右)と 『荒れ狂う河』 リー・レミックと ・の 『荒馬と女』 1961年) に出演。 やはりドラッグ中毒であったが、「 私 より 薬の服用が) ひどい人に初めて会った 」 と語ったという。 それでも演技にかける情熱は失わず、の 『ニュールンベルグ裁判 』 1961年) にはノーギャラで出演し、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。 トラブル・メーカーとの評判が立ってしまい、ハリウッドから声が掛からなくなり、ラジオやTVに出演。 4年ぶりの劇場用映画となる仏・独合作の 『ザ・スパイ』 1966年) に出演したが、作品が公開される前に亡くなってしまった。 モンティはニューヨークの自宅にいた。 午前1時過 ぎ、付き人の看護師から、その夜にTV放映された 『荒馬と女』 を観たか尋ねられたモンティは、「 まったく観ていないよ Absolutely not 」 と答えたという。 これが最後の会話となった。 朝、看護師が起こしに行くと、ドアには鍵が掛けられ、返事がない。 心配した看護師が庭から梯子で2階の部屋へ 入ると、ベッドの上で既に亡くなっていたという。 死因は心臓発作。 享年 45歳だった。 モンゴメリー・クリフト トリビュート動画。 ナレータはエリザベス・テイラー.

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モンゴメリー・クリフト (今週のスター)

モンゴメリー クリフト

生涯 [編集 ] 子役として13歳でで初舞台を踏み、以後10年間は舞台で経験を積み、多くの作品で主演を務めて高い評価を得た。 ハリウッドからの誘いを断り続けていた彼だが、1948年、主演の『』で映画デビュー。 同年の『』でナチスによって母親と離ればなれにされた事によって、恐怖のあまり人間不信に陥り失語症となった少年を保護した心優しい米兵を演じにノミネート。 その後『』、『』でもノミネートされ、二枚目俳優として活躍する。 映画スタジオとの長期契約を結ばず、大作や話題作への出演も断ることが多かった。 『』、『』、『』、『』などは彼が断った作品の一部である。 1950年頃からとに悩まされるようになり、その結果、との問題を抱えるようになる。 更に1956年にに遭い顔面を負傷、をする も顔の筋肉の一部が動かなくなってしまい、以後更に健康上の問題を抱えるようになる。 1959年にはの戯曲の映画化『去年の夏 突然に』、1961年には、主演の『』に出演。 1961年の『』ではにノミネートされ、その後の活躍も期待されたが、1966年にで死去した。 主な出演作品 [編集 ] 公開年 邦題 原題 役名 備考 1948 The Search ラルフ・スティーヴンソン Red River マット・ガース 1949 The Heiress モリス・タウンゼント 1950 大空輸 The Big Lift Sgt. As Husbands Go 1933• Fly Away Home 1935• 『ジュビリー』 ( 1935• Obedient Husband 1938• Eye On the Sparrow 1938• The Wind and the Rain 1938• Dame Nature 1938• The Mother 1939• There Shall Be No Night 1940• Out of the Frying Pan 1941• Mexican Mural 1942• 『危機一髪』 1942• 『』 1944• The Searching Wind 1944• Foxhole in the Parlor 1945• You Touched Me 1945• 『』 1954 受賞歴 [編集 ] アカデミー賞 [編集 ] ノミネート :『』 アカデミー主演男優賞:『』 アカデミー主演男優賞:『』 :『』 ゴールデングローブ賞 [編集 ] ノミネート :『』 脚注 [編集 ].

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男も女も虜になったイケメン俳優、モンゴメリー・クリフトの時代

モンゴメリー クリフト

仏式の場合• 初七日 - 1966年07月29日 四十九日 - 1966年09月09日 百か日 - 1966年10月30日 一周忌 - 1967年07月23日 三回忌 - 1968年07月23日 七回忌 - 1972年07月23日 十三回忌 - 1978年07月23日 十七回忌 - 1982年07月23日 二十三回忌 - 1988年07月23日 二十五回忌 - 1990年07月23日 二十七回忌 - 1992年07月23日 三十三回忌 - 1998年07月23日 五十回忌 - 2015年07月23日 百回忌 - 2065年07月23日 百五十回忌 - 2115年07月23日 二百回忌 - 2165年07月23日 三百回忌 - 2265年07月23日 神式の場合• 十日祭 - 1966年08月01日 二十日祭 - 1966年08月11日 三十日祭 - 1966年08月21日 四十日祭 - 1966年08月31日 五十日祭 - 1966年09月10日 一年祭 - 1967年07月23日 三年祭 - 1969年07月23日 五年祭 - 1971年07月23日 十年祭 - 1976年07月23日 二十年祭 - 1986年07月23日 三十年祭 - 1996年07月23日 四十年祭 - 2006年07月23日 五十年祭 - 2016年07月23日 百年祭 - 2066年07月23日 百五十年祭 - 2116年07月23日 二百年祭 - 2166年07月23日 三百年祭 - 2266年07月23日 キリスト教式の場合• 追悼ミサ 三日目 - 1966年07月25日 追悼ミサ 七日目 - 1966年07月29日 追悼ミサ 三十日目 - 1966年08月21日 死者記念のミサ 一年目 - 1967年07月23日 死者記念のミサ 十年目 - 1976年07月23日 死者記念のミサ 二十年目 - 1986年07月23日 死者記念のミサ 五十年目 - 2016年07月23日 死者記念のミサ 百年目 - 2066年07月23日 死者記念のミサ 二百年目 - 2166年07月23日 死者記念のミサ 三百年目 - 2266年07月23日• 現在0人がこのページに訪れています。 1時間:0人 24時間:1人 1週間:2人 1ヶ月:11人 1年:192人• 亡くなられて半世紀以上経過しても、忘れられないお方です。 人並み以上に優れた環境や、頭脳,容貌等を授かった人の中には、平凡な人生を全うできない人がいる。 貴方様の晩年は苦しすぎる。 高校生の頃、貴方は美しいけれど暗いと思っていました。 ご自分が納得した作品でないと出演されなかったそうですが、 どの役柄も陰影がある。 そんな、あえて難しい役柄を選ばれたのですか。 それぞれの作品の中の貴方は、同じ俳優とは思えないほど、みんな違う。 カメラが違うせいなのか、これぞ名優というべきか。 「山河遥かなり」だけは、心優しいアメリカ兵の役で、さわやかな気持ちで鑑賞できます。 「私は告白する」の神父様。 若き日の貴方様は、本当に美しい、ほれぼれします。 52回目の命日7月23日、一日中貴方のことを忍んでいました。 半世紀以上たちましたが、最も美しい男優と言われた貴方は、昨今のイケメンと言われる沢山の俳優さんたちの追随を許しません。 美しいだけではなくて、演技への真摯な姿勢や金銭にこだわらないお人柄も魅力の一つです。 しかし36才の時、最も美しいと言われた顔を失われました。 何ということ・・。 神様をお恨み申しました。 事故のあと、亡くなられるまでの10年間の苦しみを思いやります。 その上バイセクシャルを認める社会ではなかったとは・・。 でもアルコールとドラッグに逃避されたのは理解に苦しみます、弱すぎます。 アレルギーや大腸炎に悩まされた体質のお方なのにです。 事故の前までの絶大な人気が、急速に落ちていったのは仕方のないことです。 しかしあのエリザベステーラーは亡くなられるまで、貴方を支え続け愛されたのでしょう、よかった。 早世されましたが、若き日の魅力あふれるあなたを、没後半世紀たった今も慕っています。 想像しがたい昔、地球に隕石が衝突したように、私の日常に没後51年もたっているモンゴメリークリフトさんが突然やってこられました。 弟が昔の名画のDVDを沢山持っているから見ないか、と貸してくれたのが始まりです。 「山河遥かなり」での心優しいアメリカ兵は実に爽やかでした。 しかし「陽の当たる場所」「地上より永遠に」「私は告白する」「女相続人」と何度も見ていますと、暗い翳りを背負った役ばかりで見るのが苦しくさえなります。 気に入った作品だけ出演したと言われますが、どんな基準で出演作品を選ばれたのか。 最近「赤い河」をみていますが何度見ても素晴らしい、ハンサムで映画初出演とは思えぬ演技で、ジョンウエインを食っている。 この役は暗い翳りを背負った役ではないので安心して観賞しています。 牛6千頭を引き連れて撮影に臨んだと言うアメリカ人の心意気!こんな国とよくまあ戦争をしでかしたものです。 去年暮れから貴方様の出演作品が毎日かかっています。 現代の日本のように飲酒運転が厳しく罰せられる時代であれば、自動車事故であの美しい顔面を失ってしまう様なことなどなかったのに・・・。

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